椅子があると、私たちは世界から許される。孤独で自由な「すわる」を、愛犬の隣で考える|社会学者・岸政彦さん
千座万考

椅子があると、私たちは世界から許される。孤独で自由な「すわる」を、愛犬の隣で考える|社会学者・岸政彦さん

#ライフスタイル

仕事、趣味、時には休憩やリラックス。ライフスタイルによって、「すわる」のシチュエーションや、その先に広がる世界はまったく異なるものです。エッセイ連載「千座万考」では、毎回異なる書き手が「すわる」について考えを巡らせ言葉を綴ります。


第7回の寄稿者は、社会学者の岸政彦さんです。学生時代に万博記念公園の広い芝生に腰かけて見つけた「座る意味」、そして愛犬とともに座りながら思い出す沖縄の古びた椅子について書いていただきました。

沖縄、離島のダイニングチェア

 沖縄で長いこと、もう30年近くになるが、聞き取り調査というものをしている。ただ私は、長いこと通っていると言っても、沖縄で紹介されてお会いする初対面の方に、2時間か3時間、その生活史(人生の語り)を聞き、そしてまた内地に戻ってくる、という調査で、打越正行や熊本博之といった社会学者と比べて、それほど地域に入り込んだ、ディープな調査をしているわけではない。

 沖縄の、老人クラブの会長さんや自治会長さんから紹介してもらって、ひたすら手土産を持って、頭を下げて、その人生を語ってくれるひとを訪ね歩いて、そうやって出会った方にひとりずつ、公民館やご自宅で、2時間3時間、ときには4時間以上にわたって、その人生を聞く。それは個人の人生の、これまで生きてきた苦労と喜びの物語であり、同時に、戦後の沖縄が日本とアメリカというふたつの大国のはざまで翻弄されてきた歴史の物語でもある。


 そうやって、もう30年近くも沖縄に通っているのだが、あるとき沖縄本島周辺のある小さな離島で聞き取りをしたことがある。

 私はひとの人生の語りを聞くとき、語り手と一緒に深い海に潜っていくような、そんな気持ちになる。2時間か3時間、ただひたすらひとの人生に耳を傾けて、やがてその聞き取りも終わり、ありがとうございました、またご連絡しますとご挨拶をして、会場となった公民館やご自宅から外に出ると、数時間にわたる潜水から浮上して、ようやく波の上に顔を出し、それまで忘れていた呼吸をする気持ちになる。


 その日も疲れ切って、公民館から出たあと、宿に帰らずにそのまま浜へと向かった。小さな島だから、歩いて数分で浜に出た。どんよりと暗く曇った、風の強い、冬の日だった。沖縄でも真冬は寒い。冷たい強い風のなか、浜を歩いた。沖縄の浜は、宮古島などの一部を除き、細かい砂ではなく、ほとんどがごつごつした珊瑚のかけらでできている。歩くたびに足の下でがりがりと音がする。白く干からびた骨の上を歩いているようだ。

 数時間にわたり、沖縄戦の話を聞いたのである。当時は子どもでした。とにかく怖かったです。生き別れた妹とは、結局そのあと、二度と会えませんでした。生きているか死んでるかもわかりません。


 しばらく浜を歩くと、そこに3つの椅子が置いてあった。

 何の特徴もない、ただ普通の、そこらへんの家で普通に使われているような、安物の、ダイニングチェアだ。ただの家具だ。潮風に吹かれ、日にさらされ、珊瑚のかけらのように白っぽく干からびている。座面にも足にもひび割れが走っていて、もう誰も座れないぐらい、ほとんど朽ちて、壊れかけている。


 私はそのときよほど疲れていたのだろう。なぜかその3つの椅子をみて、激しく心を揺さぶられた。

 しばらく、数分のあいだ、立ち止まって、私はただその椅子を眺めていた。

 そして誰とも出会わず、誰がその椅子を置いたのかもわからないまま宿に帰り、酒を飲み、そして次の朝、那覇に帰ってきた。

 地元の、おそらく高齢の男性が置いたのだろう。女性かもしれない。あの島で生まれて、そこで育ったひとだろうか。沖縄は出稼ぎと移民の島だ。若いとき、一度や二度は那覇や大阪や東京に、出稼ぎに行ったに違いない。歳をとって、墓や家を守るために帰ってきたのだろうか。そして地元の隣人や幼馴染と、夕暮れの海でお茶やビールを飲むためだけに、毎日顔を合わせている隣人や幼馴染とただ一言、二言言葉を交わすためだけに、あの古びた椅子を置いたのだろう。


 座面のビニールの焼け方からすると、20年や30年は経っていたように思う。ほとんど壊れかけていて、だからたぶん、あの椅子にはもう、誰も座るひとはいなくなっているはずだ。そこに置かれてから何年経っているかはわからないが、そのあいだずっとあの椅子には、誰かが座り、誰かと言葉を交わし、誰かと夕暮れの海を眺めて、そして誰も座らなくなったいま、あの椅子は黙って海を眺め続けながら、朽ち果てようとしている。誰も座ることのないままに、あの椅子は崩れて、消えようとしている。

 観光地化されていない、ひとけのない、誰も来ない沖縄の離島の小さな浜で、誰かが置いた椅子。そこでは楽しい会話もあっただろうし、悲しい酒もあったことだろう。あの椅子のことを、もう誰も覚えていないかもしれない。しかし私はあの椅子のことが忘れられない。

 海を眺めるためだけに置かれた椅子。

大阪、万博公園のベンチ

 椅子ほど贅沢なものはない、と思う。椅子は贅沢なのだ。それは贅沢で、自由で、解放的だ。それは驚くほどの効果を持って世界を一変させる。浜辺に椅子を置く。そこに座ってみると、光景ががらりと変わることに驚くに違いない。

 座るということは、孤独で自由だ。ひとりで椅子に座って海を眺め、空を見上げる。これほど贅沢なことがあるだろうか。そしてこれほど寂しいことがあるだろうか。

 思いもよらない場所に椅子があるとき、思いもよらない場所で椅子を見つけたとき、私たちは驚く。ここで座ってもいいのかと、驚くのだ。座るとき、私たちは世界から許される。

 それは世界から許される瞬間である。

 あるいは、ひとと一緒に座る。あの浜の椅子は3脚あった。ひとと座るための椅子だったのだ。ひとと一緒に座ると、会話が始まる。椅子は会話のための装置だ。それはひととひととをつなげる。


 繰り返すが、椅子ほど贅沢なものはないと思う。はじめてそう思ったのは私が大学生のころだった。いまから40年近く前、室町時代のことだ。

 ある朝、1限の授業に出るために大学へむかう電車に乗っていた。車内は同じ大学の学生でぎゅうぎゅうの満員だった。ひたすら我慢に我慢を重ねてその電車に乗っていた。やがて大学の最寄りの駅に着いて、学生たちがぞろぞろと降りていく。私もその波に乗るはずだった。

 ふと、やってられるか、と思ったのだった。アホらしい。こんな朝からこんな満員電車に詰め込まれて、つまらん授業受けさせられて、何しとんねん俺。


 私は降りなかった。学生たちがいなくなった電車はがら空きになった。私は空いたシートに悠々と座って、とつぜん降って湧いた孤独な自由に、すこし戸惑いながらも、胸を躍らせていた。これからどこに行って、何をしようか。そのときすでに出席が危なくて留年しそうだったのだが、知ったことか、と思った。もう何もかもどうでもよくなっていたのだ。

 それ以上に、その日は冬の寒い日で、よく晴れていた。目が痛くなるほど澄み切った青空だった。

 しばらく乗っていたら、まったく知らない駅に着いた。私は何の理由も、前もっての知識も何もなく、ただほんとうに無目的に、なんとなくその駅で降りた。


 改札を抜けて駅前に出ると周辺の案内地図があった。見てみると近くに「万博公園」というものがあるらしかった。そしてそこに「民族学博物館」というものもあった。とにかく広大な公園がそこにあったのだ。

 私はその万博公園に、特に何の知識も、期待もなく、歩いて行ってみることにした。私は大阪の生まれではなかったので、それがどういう由来でできたどういう公園なのか、何も知らなかった。

 入り口に到着してゲートから入ると、私の目の前には、それまで見たこともないぐらい広い芝生が広がっていた。とつぜん降ってわいた孤独と自由の先に、そんな空間があるとは、まったく想像もしていなかった。


 私は、12月の寒い冬の朝、たったひとりで偶然、万博公園にたどり着いたのだった。

 ただ広い、というだけの芝生。周囲には無数の大きな木が葉を茂らせている。冬のことで、すっかり葉を落として、黒く細い枝を広げている木もたくさんある。風が冷たい。

 広い広い芝生の広場の周囲に、いくつかのベンチが置いてあった。見渡す限り誰もいない。私はそのベンチのひとつに座った。

 猛烈に感動したことをよく覚えている。偶然たどり着いた広大な公園の広大な芝生の片隅で、あらゆる義務や責任から解放された私がいた。

 座るということは、そういうことだ。

ちくわと、淀川の椅子

 結婚してすぐに子猫を2匹拾い、おはぎときなこと名付け、連れあいと4人家族でずっと暮らしてきた。まだ大学院生のころで、金もなく肩書きもなく、研究がなにかの形になる見込みはまったくなく、未来は真っ暗で、そして自由だった。

 おはぎもきなこも長生きした。きなこは17歳の秋のよく晴れたある朝、いつもの寝床で、冷たくなっていた。原因はわからない。突然のことだった。数時間前まで普通に元気だったのだ。 

 おはぎはそのあとも長生きして、22歳7ヶ月で、見守る私と連れあいにそっと撫でられながら、静かに、ほんとうに静かに息をひきとった。

 4人家族が20数年経って、2人に戻ってしまった。そのあと1年ほど、家のなかは火が消えたように静かになった。


 年齢的にも新しい家族を迎える最後のチャンスだと思い、保護された野犬の子犬を引き取った。女の子で(私も連れあいも、子どものころから犬や猫が家のなかにいて、そしてそれはみんな女の子だった)、茶色の顔の、黒い背中の、よく遊びよく走る、感情豊かな、利発な、社交的な、そして神経質で怒りっぽいその子犬は「ちくわ」と名付けられ、そして私たちはふたたび3人家族になった。

 ちくわを家に迎えてからすぐに電動自転車を買い、「ちくわ号」と名付けた。後部にいちばん大きなサイズのカゴを取り付け、そこにちくわを乗せてさんぽに出かける。自転車で少し走ると、大阪市の北部を流れる、淀川という大きな川があり、そこには広い広い、まるで地球みたいに広い河川敷が広がっている。


 ちくわを自転車に乗せて、淀川の河川敷に毎日行く。犬の友だちもたくさんいる。ちくわはほんとうに社交的で、どの犬のことも大好きで、どんな犬とも仲良く遊ぶ。子犬のころからおもいきり一緒に走っていて、いまでは立派な、筋肉ムキムキの犬になった。大きな、とても大きな耳が立っていて、目も大きくて、口も大きくて、手足が長くて、表情が豊かで、いつも笑っている。

 ちくわはなぜか、公園や河川敷にあるベンチが大好きだ。通りかかると、かならず自分から飛び乗って、悠々と座る。おとうさん一緒に座りましょう、と、私を見上げてにこにこと笑う。

 出勤前の朝のさんぽで、時間がないんだけどな、と言いながら、私も一緒に淀川の河川敷のベンチに座る。そういうときはちくわはいつも、私に背中を向けて、おしりを私の体にもたせかけて、ゆったりと座る。私はその背中を撫でる。

 春も、夏も、秋も、冬も、ちくわと一緒にベンチに座り、ちくわと一緒に、広い広い、まるで地球のように広い淀川を眺める。はるかかなたの対岸のビルは、もやに霞んでよく見えない。それぐらい淀川は広い。


 そんなときいつも私は、あの沖縄のさみしい離島の浜で見た椅子を思い出す。座るひともいなくなり、潮風に吹かれて朽ちかけた椅子を。犬は人間ほど長生きしない。いつか私たちには、きなことおはぎを見送ったように、ちくわを見送る日が来る。そして私たち自身も、いつかこの世を去る日が来る。淀川の河川敷にあるベンチはコンクリートでできていて、簡単に朽ちることはないだろう。私たちみんながいなくなってから、誰がこのベンチに座るだろうか。このベンチに座ったひとは、私と同じように、解放的で、自由で、贅沢で、そして孤独な気持ちを味わうだろうか。

PROFILE

岸政彦

社会学者

社会学者。京都大学大学院教授。研究テーマは沖縄、生活史、社会調査方法論。著作に『同化と他者化─戦後沖縄の本土就職者たち』、『街の人生』、『断片的なものの社会学』(紀伊國屋じんぶん大賞2016受賞)、『ビニール傘』(第156回芥川賞候補、第30回三島由紀夫賞候補)、『リリアン』(第38回織田作之助賞受賞、第34回三島由紀夫賞候補)、『東京の生活史』(紀伊國屋じんぶん大賞、毎日出版文化賞)、『沖縄の生活史』、『大阪の生活史』などがある。

CREDIT

執筆・写真提供:岸政彦 編集:桒田萌(ノオト)

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PROFILE

山田 太郎

CO-FOUNDER & CTO

親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。

山田 太郎

CO-FOUNDER & CTO

親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。

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