親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。
人気のあのお店や場所には、なぜ人が集まるのか? 連載企画「人が集まる、場のヒミツ」では、お店・空間づくりのポイントや、その背景にある想いやこだわり、そして魅力的なエピソードの数々から、「愛される場所」の秘密を紐解きます。
第11回は、大阪市西区にある「喫茶水鯨」。開店からまだ3年とは思えない、時を遡ったようなレトロな空間に思わず目を見張ります。店内を彩る年代物の家具や調度は、ほとんどすべて、金沢で長年続いた老舗喫茶店「禁煙室」から移築したもの。その空間はSNSや喫茶好きの間で話題になり、土日祝日にはいつも店の前に行列ができています。
この場を生み出したのは、元々はケータリングの調理師をしていた山口修平さん。「後世に残すべき文化遺産として、喫茶店の良さを伝えたい」との強い思いを持ち、空間づくりとして体現した山口さんに、長年続いた老舗を継承・移築した経緯や、この場に込めた喫茶店ならではのくつろぎの魅力などを聞きました。
開業のきっかけは、失われつつある喫茶店への危機感から
—山口さんが喫茶店に通いはじめたきっかけについて教えてください。
山口
もともとは僕自身、喫茶店が好きでした。調理師学校を卒業した後、ケータリング会社で調理師として働いていたのですが、結構ハードな現場で、喫茶店が貴重な息抜きの場でした。
よく通っていたのは、クラシックな雰囲気の老舗店。地元や職場の近く、出張先の町でも時間があれば探して行きました。喫茶店の良さは、くつろげる時間と、人と人がつながる空間。同じコーヒーでも、せかせかと飲んで出ていくのでなく、のんびりと味わえる場所として、生活に欠かせない存在になりました。
店主の山口修平さん
―喫茶店でのくつろぎは、どんなところに感じますか?
山口
やはり家具や調度は、喫茶店の大きな魅力の一つです。職人の意匠へのこだわりが感じられるソファの手すりの形とか、カウンターの肘置きの場所など、使い手のことを考えた細かなデザインの工夫も、おもてなしやくつろぎの要素につながっていると感じます。
ステンドグラスのように非日常感を演出する調度もあり、ちょっとした意匠があるとないとでは居心地の良さも変わってくると思います。特に、長年続く喫茶店の調度は作り込まれたものが多くて、設計がしっかりしているから長く使えます。
肘を置くのにぴったりの高さのソファ。手すりの先端は手のひらでつかむのにちょうどいい曲線になっている
―調度や家具のデザインが、欠かせない要素になっているんですね。
山口
さらに、喫茶店の空間作りには店主の趣味嗜好が出ます。すっきりしたお店のマスターは寡黙だったり、ごちゃっとしたお店のマスターはすごく話好きだったり、店構えにも性格が表れて、いろんな店があるから飽きないんですね。中には入りにくい店もありますが、慣れると良さが分かってきて、そこから喫茶店の魅力にはまっていきました。
―開業にあたって、どういう経緯で継承という形になったのでしょうか?
山口
調理師時代に独立を考え始めたのですが、その頃には自分で喫茶店を開くことに迷いはありませんでした。ただ、閉店を決めたある店のマスターが「自販機とコンビニに負けた」と嘆いている様子を見て、喫茶店が置かれた現状を知ったんです。
なかなか再現できない内装や家具が簡単に失われるのが惜しくて、それなら、自分で新しい店を作るより、古いお店の跡を継いでできないだろうか、と考えました。10数軒ほど、地道に訪ね歩いて話をしたものの、いきなり「跡継ぎはいますか?」と聞かれたら、怪しまれることもあって……。それでも、店がなくなることを思うと、ダメ元でも話をしなければ、という思いだけで動いていました。
あふれる熱意が取り持った金沢の老舗喫茶店との縁
―そこで出会ったのが、金沢の老舗喫茶店「禁煙室」ですね。引き継ぐまでには、どんな経緯があったのでしょうか?
初めて僕らの話を正面から取り合ってくれたのが、「禁煙室」のママさんでした。今まで訪ねた店の中でも、「禁煙室」は自分が思い描く理想の空間だと感じたお店でした。だから、閉店すると聞き、居ても立ってもいられなくなって。移住する覚悟までして直接、金沢に行きました。
すると、すでに建物の取り壊しが決まっていて、ママさんの閉業の意思は固くて。そこで、「お店をそのまま継ぐのが無理ならば、内装をすべて別の場所に移せばいいのでは」と思いついたんです。
「禁煙室」の店内に掲げられていた電光看板も引き継いだ
―すごいアイデアですね。どうやって金沢から大阪まで移されたんでしょうか?
建物のオーナーさんと直談判して移設の了承を得て、家具や調度だけでなく、扉やカウンター、看板、壁のステンドグラスなど、取り出せるものはすべて持ち帰るつもりでいましたが、どれも50年近く経った年代物。
そこで、古材の再利用を得意とする木工職人の知人を頼って、ほとんどを無傷で解体し、僕らも夫妻でトラックを運転して運びました。ちょうど冬の2月で、当日は大雪だったこともあり、運搬に苦労しましたが何とか乗り切りました。
大雪の中、家具などを運搬する様子(提供写真)
―お店一軒分ですから、すごい量だったでしょうね。
カウンターのタイルも1枚ずつ丁寧にはがして、元は約6mあったカウンターだけは半分にして移設しました。キッチン上の戸棚の刷りガラスは、今は作られてないもので、ママさんによると、大学の教授がわざわざ見に来たことがあると聞きました。
(左)元々は6mあったカウンターが半分の長さになり、現在も使用されている
(右)カウンター奥にあるタイルは1枚ずつはがして移築先で貼り直した
―ほかにもさまざまなものが引き継がれていそうですね。
細かいところだと、食べ物に使うお皿や、本棚の中の漫画もそのままで、紫煙にいぶされた背表紙にも歴史を感じます。
ランプは加賀名産の九谷焼の装飾が付いていて、金属の骨組みや細部まで手が込んでいるのが見てとれます。外したときは、シェードが脂でドロドロ、真っ黒になっていましたが、外してみると生地が無地ではないと気付きました。縫い目の汚れてないところに元の模様が残っていたので、近い意匠の布に張り替えて使っています。
(左)持ち運んできたものと、水鯨で新しく揃えたものが混在。背表紙の色で双方の違いがわかる
(右)ランプシェードも磨いたりリペアしたりすることで使用している
―移設するなかで気付いたことや新たな発見はありましたか?
ソファは布の張り替えができなくなっていて、中のベルトも緩んでいたので、以前は座布団2枚を重ねて使っていたそうです。家具職人に相談したら、「補強ならできる」と聞いて、座面の中にウレタンと板を入れてもらいました。
表面の布は今もすり減ったままだが、補強したことできちんと使えるようになった。
―確かに、今ソファに座っていましたが、何も違和感がありませんでした。
どの調度も設計が頑丈で、リペアすることでまだまだ使えるというのを実感しました。ほかにも、渋いブルーのテーブルも天板の樹脂をはがして、エポキシを塗ってもらいました。ところどころ、凹みやタバコの焦げ後がありますが、それも込みで、いろんな人が使った気配を想像すると楽しいし、当時の記憶ごと後世に残したいですね。
「禁煙室」から運び出したブルーのテーブル。
使用の跡が多く残されているが、エポキシを塗ることで現在もしっかり活用されている
受け継いだ家具や調度は使われてこそ価値がある
―この場所には、どういう経緯でお店を構えることになったのでしょうか。
実は、場所が決まる前に先に移築を決めたんです。後から急いで物件を探したのですが、幸運にもこの建物と出会えました。
外観にすごく惹かれて、ここなら調度品が合うだろうなと思いました。しかも、この界隈は明治時代の外国人居留地で、内見の時に、大阪で最初の喫茶店「カフェー キサラギ」があったとことを知って、不思議な縁を感じたのも、この場所に決めた大きな理由でした。
居留地の名残が残る佇まいの外装に惹かれる利用客も多い
―ずっと前からここにあったような、レトロな雰囲気に驚きました。
移築のときにこだわったのは、できるだけ当時の配置を再現すること。本来はカウンターの向かいにソファ席があったので、レイアウトは違いますが、ステンドグラスの前にソファ席、カウンターのバックにタイルの壁といった、大まかな組合せは元の姿を踏襲しています。
カウンターの高さも以前と同じです。時間はかかりましたが、ただ古いものを利用するのでなく、金沢の「禁煙室」がいかに良いお店だったかという思いを伝えたかったので。
奥はカウンター席で、1人の利用客が座ることが多い
―空間作りで工夫していることもお聞きしたいです。
オペレーションを考えると、本当はカウンターを入口側に置きたかったのですが、居心地の良さを優先して、入口すぐの天井が高いフロアにソファ席を置きました。
座面が低いぶん、より空間の高さが出てゆったりと感じられますし、天井が低い奥のフロアと比べると音の反響も広がる感じがして、それもくつろげる要素になっているのかなと思います。
ちなみに、壁を起こして裏から照明を当てるステンドグラスも受け継いだものです。壁を起こす作業だけで、1〜2カ月はかかったでしょうか。大工さんにもすごく無理をいってしまい時間はかかりましたが、せっかく移設するならより再現度を高めたいと思ったんです。
入口すぐにソファ席が並ぶ
―実際にお客さんはどう感じられているのでしょう?
長く大事に使われているものは新品にはない味があります。それが若い方には斬新に、年輩の方には懐かしく感じられるので、世代を問わず惹かれるものがあるようです。
その中で、若いお客さんから時々、「おばあちゃん家に来たみたい」と言われることがあるのですが、店にとっては最高のほめ言葉。自分が考える“喫茶店のくつろぎ”のイメージそのものですね。安心や親しみやすさが、その一言に含まれています。
しかも、ごく最近喫茶店巡りを始めた方からそういう表現が出てくるということは、誰もが無意識に刷り込まれている「くつろぎの感覚」というものがあるのかもしれません。
―内装や調度品からも会話の広がりがあるのですね。
ここにある調度すべてが、会話のきっかけになっていて、人のつながりを生むものでもあります。「あれ何ですか?」という質問や興味から話が始まることは多いですね。
個人的に喫茶店は文化遺産だと思っていますが、ただ保存するのではなく、使われてこそ価値があります。SNSを通じて写真を撮りに来る方も多いですが、目的は何であれ、この空間の良さを体感してもらい、昔の職人さんが意匠に込めたホスピタリティに気付いてもらえたらうれしいですね。
喫茶店の魅力を伝えながら、くつろぎの文化を後世に継承
―ご自身が店主になって、喫茶店とお客さんとの関係性について感じることはありますか?
店を続ける中で気付いたのですが、喫茶店はお寺や神社と少し似ているかもしれないですね。来るものは拒まず、目的はいろいろだけど気軽に入れて、自然と人が集まる場所。「禁煙室」も人のつながりを大事にしていたので、そこは受け継いでいきたい。
以前の「禁煙室」は、テレビも置いてある気さくな雰囲気で、マスターとお客さんの会話がBGMになるようなお店でした。くつろげる要素って、会話の音とかも含まれますから。僕自身は、あまり便利とは言えないこの場所を目指して訪ねてくださるのがうれしくて、つい話しかけてしまいます(笑)。
皆さんがこの空間を気に入ってくださることで、「禁煙室」の魅力を改めて実感しますし、残すことの価値を強く感じます。
―今後、喫茶店とそれを取り巻くコミュニティはどうなっていくと思いますか。
「禁煙室」を移築するときに「同じ方法で他の店も残せるのでは」と思い、お店の運営と並行して、閉店する喫茶店の調度品を引き取る活動を始めました。今年から「日本喫茶文化協会」を立ち上げて、後継者の募集や内装の保存・継承の相談などの活動を、より本格的に行っています。
中でも、力を入れたいのは後継者探しです。今のところボランティアですが、先々は会員制にして同士を募り、後継者とお店をつなぐプラットフォームになれればいいですね。個人ではなく協会として、実績を重ねていくことで、喫茶店を残す活動により説得力を持たせられたらと思っています。
―お客さんごとお店を継ぐのがベストな形なのでしょうか?
喫茶店はコーヒーを楽しむと共に、人に会いに行く憩いの場としての役割が大きい。そこにいけば誰かがいるとか、マスターと情報交換ができるとか、会話が生まれる場として残したいと思っていて。
ありがたいことに、当時の「禁煙室」を知る方が転勤や旅行で関西に来た時に訪ねてくださることもあります。常連さんを継ぐのとはまた違いますが、長年続いていた店だからこそのご縁も生まれました。
―近年、喫茶店の人気は再び高まっていますが、今後にどうつなげていけるでしょうか?
このままブームで終わってほしくないという思いはあります。だから、この店がモデルとなって、若い世代に「こういうやり方もあるんだよ」と知ってほしいですし、できれば真似してもらえるとうれしい。
今も、各地で閉店の情報を見ると、本当は自分で直接訪ねたいし、その後どうなったのかも気になります。店を始めた今は自分では動けないので、各地で喫茶店を愛するファンを増やしていけたら、閉店される店主の思いを一緒に継ぐ人も増えるのではと思っています。
山口修平
喫茶水鯨 店主
ケータリング会社での勤務時代、仕事の合間に通った喫茶店の魅力に惹かれて、自らも開業を決意。全国の喫茶店を巡る中で、石川県金沢市の老舗「禁煙室」の閉店を知り、店の設備を引き継いで大阪へ移設。2021年に「喫茶水鯨」として開店。2024年に「日本喫茶文化協会」を立ち上げ、喫茶店の継承活動を広げている。
ライター:田中慶一 撮影:木村華子 編集:桒田萌(ノオト)
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