親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。
仕事、趣味、時には休憩やリラックス。ライフスタイルによって、「すわる」のシチュエーションや、その先に広がる世界はまったく異なるものです。エッセイ連載「千座万考」では、毎回異なる書き手が「すわる」について考えを巡らせ言葉を綴ります。
第12回の寄稿者は、小説家のカツセマサヒコさんです。Mr.Childrenのとある歌詞をきっかけに知った、「座る」ということ。現代の街において失われてゆく座る場所と、公園のベンチとイートインスペースに感じた愛について、誠実な筆致で綴っていただきました。
素通りしていたベンチに座って
座っていられない子どもだった。
じっとしていられず、いつも忙しなく動き回っていた。幼少期の私にとって、読書は孤独の証拠であるように、座ることはすなわち、退屈の証明であった。電車で座れたとしてもすぐに靴を脱ぎ、外の景色を眺めていた。少しでも動きのあるものを欲しがり、つまらないものから距離を置きたかった。小学校の卒業式で、一人ずつ賞状を受け取っていく。パイプ椅子の上、私だけ落ち着きがなかったらしく、母親から小言を言われたのを今でも覚えている。
そんな私が「座る」という行為に休息以外の価値を見出したきっかけは、音楽であった。2000年に発表されたMr.Childrenの楽曲『口笛』に、こんな歌詞があった。
“いつもは素通りしてたベンチに座り 見渡せば
よどんだ街の景色さえ ごらん 愛しさに満ちてる“
真冬にリリースされた曲だった。その頃、街の空気はいつも乾いていて、空は晴れていてもどこか寂しそうな表情をしていた。そんな折、MDウォークマンがこの歌詞を伝えて、当時中学生だった私に、座ってみるといい、と促した。実家の近くには善福寺川が流れていて、川沿いにはいくつかのベンチがあった。どれも川や公園に向けて設置されていた。

たいして疲れてもいないのに、腰掛けた。
すると、耳の中で鳴っていた音や歌詞が、そのまま映像になった。
空は変わらず寂しげであるのに、景色は確かに愛しさを帯びて、やがて自分の中に満ちた。水位の少ない川と、葉を落とした木々。群れと逸れた小さな雲のそばを、もっと小さな野鳥が飛んだ。そこには確かな情緒があった。退屈で息が詰まりそうな日々の中から、ようやく呼吸法を見つけた気がした。
一人座って、ただ景色を眺めることは、退屈でも窮屈でもない。
そのことを知った。
ベンチに込められた設置者の愛
あれから25年経って、奇縁が重なり、今は小説を書いて暮らしている。
去年から今年にかけて、『みんなのこうえん』という物語を書いていた。ある公園のベンチに付けられた肘掛けが、何者かによって切断されたことから始まる、「排除アート」をテーマにした小説だった。
作品を執筆するにあたり、いくつかの公園に行き、いくつかの資料を読んだ。そのうちの一冊である『PARK STUDIES:公園の可能性』(著者:石川初 、鹿島出版会)という本に、公園のベンチに関する記述がある。
“ベンチが置かれる場所はそれなりによい環境であると予想できる。ベンチを設置する側の思惑を想像してみれば、わざわざ居心地の悪い場所や危険な場所にベンチを置くことは考えにくい。木陰で涼しいとか、静かだとか、そこからの眺めが素晴らしいといったような、座り心地のいい場所が選ばれてベンチは置かれているだろう。むろん心地よさの感じかたは人それぞれだが、少なくともそこが設置者の「オススメの場所」であると受け取ることはできる。”
これを読んだときに思い出したのが、25年前に座った善福寺川沿いのベンチだった。遊具で遊ぶ子どもたちを遠目から見守れるような距離に置かれたもの、川の向こうの背の高い木々に止まる鳥たちを観察しやすいもの、堀の下の川を眺めやすいもの。大きな木々の中で深く息を吸うために置かれたもの。
ウォーキングやジョギングに訪れる人も多い中で、休憩する以外に「景色を眺める」「物思いに耽る」「本を読む」「ギターを弾く(善福寺川沿いには楽器の練習をしている人の姿がよく見られた)」「食事を摂る」「アイデアを練る」などの選択肢を使用者に付与したのが、これらのベンチだった。
その、一つ一つのベンチに「ここ、オススメですよ」という設置者の愛が存在しているのだとしたら、とても愉快だ。ベンチのある風景というものは、どれも可愛げがあり、愛があると思うようになった。
東京の街に足りない、座る場所
その一方、ベンチは決して温かなものばかりではない。
ファストフード店の椅子が硬すぎたり、駅のベンチの座面がほとんどなかったりするとき、私は、早くここから立ち去るようにと、暗に訴えかけられている気がする。
そうしたものに触れるたび、街に、少しの冷たさを覚える。
下北沢駅の高架下には、ミカン下北という比較的新しい商業施設がある。ここには10段程度の幅の広い階段があって、日中は若者たちが気怠そうに腰掛けて駄弁っていたり、夕方や夜にはイベントが開かれていたりもする。公共空間で自由に座っていい場所なんて都心にはあまり見かけないので、珍しく感じるし、実に微笑ましく思う。
しかし、この階段は2024年より、深夜から早朝にかけては閉鎖されるようになった。
おそらく、真夜中に迷惑行為があったのかもしれない。もしくは、施設に対する器物破損などがあったか。近所迷惑だとか、防犯のためだとか、いくつかの理由があって、その決断に至ったと予想される。
仕方ないのかもしれない。しかし、市民の行動を制限するように夜間侵入禁止の看板が取り付けられたことには、わずかながら寂しさや疎外感を覚えてしまう。遊具が何もないくせにボール遊びも花火も犬連れも禁止された公園を見たような、窮屈な感覚だけが残ってしまう。
それと似たようなことで思うのは、とにかく東京という街には、ベンチとゴミ箱がない、ということだ。
ある夏、麹町のコーヒーショップでアイスコーヒーをテイクアウトし、紙カップで渡されたそれを飲みながら街を歩いた。飲み終えた後、カップを捨てられる場所を探しつつ自宅に帰ろうとしたのだけれど、しかし、あなたの予想通り、紙カップを捨てられるゴミ箱は移動中に一度も発見できなかった。
1時間半の移動の間に、ゴミ箱を一つも見つけられない街。
テロの恐れや、治安悪化の恐れから、この方針に切り替わっていったのだと容易に想像はつく。しかし、私の思う街としての豊かさからは、ずいぶん遠いところにいるように感じる。綺麗で美しい街並みが、個々人の行動を制限することで強引に造られているような気がする。
やさしさと温もりのある場所
そんな窮屈な街で、小さな湧水のように感じている場所がある。
その日は、どうしようもなかった。とにかく忙しくて、昼食を食べる余裕もなかった。でも、空腹でいるとどうしても頭が回らなかったり、調子が出なかったりするので、どうにかして腹に何かを入れたいと思った。
この街はとにかく、道端で何かを食べることをあまり肯定的に受け止めない空気がある。はしたないとか、だらしないとか、そういう言葉がよく飛び交う。
どこで食べるかは決められないまま、コンビニに立ち寄った。立ったままでも食べられそうなパンやおにぎりなどを選ぼうと思っていた。
しかし、店に入ってすぐのところに、イートインスペースがあることに気が付いた。
そのスペースに、ひどく感動した。突然、自宅が目の前に現れたような安心感があった。
店内で買ったものを、真冬には暖かな、猛暑には涼しい店内で、堂々と、もしくはひっそりと、人目を気にせず食べることができる。おにぎりやパンだけでなく、レンジで温めた弁当を食べることすらできる。
イートインスペースの椅子は、公園のベンチと違い、眺めを意識して設置されていないことが多い。「見ること」と「見られること」はほとんどの場合、同時に発生するようにできている。こちらから雑踏が見えていれば、雑踏からもこちらが見えている。
しかし、私はイートインスペースで食事をしている姿をあまり他者に見られたくないと思う。そうした気持ちに配慮されているのか、イートインスペースを、窓際ではなく、壁に向けて設けられている店をよく見かける。誰の目線も気にせずに体を休めることができて、本当にオアシスのように思える。
公園のベンチも、イートインスペースも、同じ「座る」という行為から始まる。でも、用途はまるで異なっていて、私はそのどちらにも、やさしさや温もりを覚える。
自分がどんな人間であっても「ここにいていいよ」と言ってもらえている気がして、その愛のある無関心に、安らぎを感じる。
「座る」というただシンプルな行為ひとつを許容されることに、愛を感じている。

執筆・写真提供:カツセマサヒコ 編集:桒田萌(ノオト)
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