親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。
体はいつだって正直だ
生まれて1年と半年になる娘は、まだ長く座っていられない。ごはんの途中で、いきなり立ち上がるし、突然立ち上がって這い出したりする。そのたびにわたしは「座ろうね〜」と声をかけ、ちいさな体をもう1度椅子に戻している。1度の食事で、何度もそれを繰り返し繰り返し。座らせては立ち、座らせては立ち。
保育園の先生からの連絡帳で「今日は長く座ってごはんを食べられましたよ」とか、「みんなと座ってコップでお茶を飲めましたよ」とか報告をもらううちに、「座ること」というのは、できて当たり前のことではないのだなあ、とふと思った。
座って食事をする。座って本を読む。考えごとをする。スマホでSNSをみる。わたしが毎日、何も考えずにしていることを、娘はいま、ひとつずつ覚えている真っ最中。もしかすると座るというのは、人間に最初から組み込まれた本能ではないのではないか。生まれてから少しずつ体で覚えていくもので、何度も失敗や成功を繰り返しながら、その姿勢を身につけていくものなのだ。
そんなことに、わたしは子育てを始めるまで30年以上、特に気にも留めずに生きてきた。
我が家には娘がちゃんと長く座っていられる椅子と、そうでない椅子がある。外食に行くと、すぐにそわそわして立ちたがる日と、不思議と落ち着いて座っていられる日がある。まだ言葉でうまく説明できないあの子も、座り心地というものを体のどこかで感じ取っているのだろう。この椅子は気持ちがいいとか、この椅子はなんだか落ち着かないとか。そういうことを、わたしより敏感に肌で受け止めている。
子どもたちはまだ言葉を持たないぶん、体に正直だ。
それを見ているうちに、わたしは自分のことを考えはじめた。
そういえば、わたしはどんなふうに「座ること」をしてきたのだろう。
お気に入りの木の椅子に、さよならを告げて
まだ娘が生まれるまえ、古い道具に夢中だった時期がある。海の見えるちいさな部屋でひとり、アンティークの家具をひとつずつ選んで、暮らしを組み立てていた頃。そのころ使っていたのは硬い木のかわいい椅子だった。背もたれが湾曲していて、座面の装飾が美しくて、見ているだけで気持ちが上がる。
ただ、どうしても長くは座っていられなかった。PCに向かって作業をしていると、しばらくすると意識が画面ではなくお尻に向かっていく。気づけば立ち上がって伸びをしたり、また座ってもぞもぞしたり、キッチンに飲み物を取りにいって……みたいなことを繰り返していた。仕事に集中したいのに、体のほうが先に音を上げてしまう。その後、泣く泣くその椅子は飾りとして役割を変えて、座り心地のいい椅子をもうひとつ仕事用に購入することにした。
わたしが1日のうちで、いちばん長く時間を過ごすのは今の所パソコンの前だ。
写真を選んだり、文章を書いたり、誰かに送るメールを綴ったり。仕事の80%くらいは、この四角い機械の前で生まれ、流れていく。でも、パソコンをただの道具だとは思っていない。わたしはこの電子機器そのものが、たぶん好きなのだ。画面に向かって手を動かしている時間は、わたしにとって癒しそのものでもある。
そんな大好きなパソコンと一緒に、20代の後半から、30カ国を点々としながら、写真を撮り、文章を書いて暮らしてきた。国を移るたびに、居心地のいい宿と、仕事のできそうなカフェを探す。それが日々のかかせないルーティーン。
あたらしい街で、自分の好きなかわいいカフェを見つけるのは、とっても楽しかった。宿も「これは写真に撮ったら素敵に写りそうだ」を基準に選ぶことが多かったけれど、それと同じくらいこだわっていたことが、「快適に仕事ができるスペースが存在するか」だった。
予約サイトやgoogle map口コミを、毎回にらめっこするように見ていた。Wi-Fiがあるのは大前提だけれど、その次に確かめていたのが、机と椅子。背もたれはあるかとか、机と椅子の高さはあっているかとか、もはや思考するよりもはやく、頭が検索をはじめる。
たとえば、ある街でよく通っていたカフェのことを今でも覚えている。大きな机があって、足元に電源があって、深く腰かけられる椅子があった。その椅子の上で、あぐらをかける。それくらいゆったりした、懐の深い一脚だった。だからわたしは、足しげく何度もそこに通った。
ノマドワーカーにとって、居心地のいいコワーキングスペースやカフェに出会えるかどうかは、本当に重要なことだった。どれだけ景色のいい街でも、心地よく座って働ける場所がなければ落ち着かない。そういう環境が見つからないときは、いっそ次の国へ移ってしまおうと思うくらいに。座る場所ひとつがわたしの居場所を決めていたのだ。
今こうして日本に、ようやく腰を据えて自分の部屋を持つことになったときに、いちばん最初に、整えたのはやっぱり仕事まわりの椅子と机だった。
たったの数センチの違いが時間を変える

考えてみれば「座り方」というのは、その時間への向き合い方そのものだ。
ピクニックのように地べたにシートを敷いて食べるとき。あれはあれで楽しいけれど、目の前の料理に集中しているかというとそうでもない。風や、人の声や、まわりの景色のほうに意識があちこちに散っていく。
カフェでもそうだ。座ってみて、机の高さと椅子の高さが、ほんの少しでも合わなかったとしたら。それだけで、もうごはんに集中できない。ちょっと低いよね〜、なんて言い合いながら、なんとなくテンションが下がってくる。たった数センチの違いがその時間の質を変えてしまう。
「座ること」は、あまりにも自然すぎて見過ごしてしまう。けれど本当は、とても重大なことなのだ。どんな椅子にどんなふうに座るのか。それは、目の前のことにどれだけ深く向き合えるかを、左右している。集中力もリラックスも、誰かとの会話も。すべては座るところからはじまっている。
ひと目惚れだけでは、長くは続かない。一緒にいて疲れない、という穏やかさのほうが最終的にはものを言う。見た目に惹かれても、隣にいて落ち着かなければいつか立ち上がってしまう。長い時間をともに過ごせるかどうか。気づけば自然と、戻ってきたくなるかどうか。
これはなんだか人生のパートナーを探すことに、どこか似ている。
椅子を選ぶことは、生き方を選ぶこと
「椅子を選ぶこと」はどんな時間を過ごしたいかを選ぶこと。そしてどんなふうに生きたいかを選ぶこと。

娘はこの先、たくさんの椅子に座っていくのだろう。座り直しを繰り返しながら、少しずつ座ることを覚えていく。そしていつか自分にとって心地のいい一脚を、自分の体で選ぶのだろう。
そのときわたしは、隣でこう伝えたい。
気持ちが上がって、それでいて長く一緒にいられる。
そういう椅子を選びなさい、と。
古性のち
1989年横浜生まれ、1歳児の娘と暮らしています。 飾らない日々をドラマチックに表現することが得意。写真と言葉を軸に、さまざまな仕事を幅広くしています。オンラインコミュニティ「Hearth Port-旅と写真と文章と-」共同主催。2022年単著「雨夜の星をさがして 美しい日本の四季とことばの辞典」(玄光社)、2024年「明日、もっと自分を好きになる 「私らしく生きる」をかなえる感性の育て方」(KADOKAWA)。
執筆・写真提供:古性のち 編集:桒田萌(ノオト)
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