親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。
日々をいきいきと過ごしている人=さまざまな「好き」を探究している人にお話をうかがう連載企画「となりの偏愛LIFE」。第21回は、「水道水の味」や「1円玉の重さ」などを「説明」する動画が人気を博しているピン芸人・鈴木ジェロニモさんです。
あらゆるものを独創的な視点で言語化している鈴木さんは、歌人としても活動中。さまざまなものを多角的に言語化し続けるモチベーションとは。言葉にせざるを得ないという偏愛の源は何か。その姿勢を探ると、“本当のこと性(せい)”をストイックに追い求める一貫した姿勢が見えてきました。
水道水は「鏡の味」、コーヒーは「焼いた時計の後ろの味」
―さまざまなものの「説明」で注目を集めている鈴木さん。そもそもこの「説明」という芸のアイデアはどのように生まれたのでしょうか?
鈴木
もともとは、YouTubeで何か企画をやってみようと思って出した動画のひとつに過ぎなかったんです。最初に出したのが「水道水の味を説明する」という動画でした。
短歌が好きで自分でも日頃から詠んでいることもあって、一首評(歌会などで、一首の歌に対して評を言い合うこと)を水道水の味に対してやってみたら、何かしら自分らしい表現に繋がるんじゃないかと思って。食レポみたいな文脈なんだけれど、たぶん水道水の食レポってしている人いないし、新しいんじゃないかと思ったんですよね。
そうしたら思いのほかネット上でたくさん反響をいただいて、「シリーズ化したらいいんじゃないか、無限にできるよ」といろんな芸人に勧めてもらったこともあり、そうか、これって無限にできるんだと気づいたというか。
―1本目の動画の「水道水の味」というチョイスも絶妙だなと思うのですが、説明する対象はどのように選んだんですか?
鈴木
「水道水の味を説明する」というのが、字面として単純におもしろそうだと思ったんですよね。それに、仮に食レポ動画を出すとして、「自分の説明の仕方によってでしか魅力が発揮されない飲食物とは」を考えたとき、一番適しているのも水道水かなと。
水道水は味自体がゼロに近いものだから、動画の魅力が言葉の魅力とイコールになるんじゃないか、というようなことを考えた気がします。

ピン芸人・鈴木ジェロニモさん
—魅力がない飲食物だからこそ「説明」しがいがあったわけですね。となると、「チョコレートの味」のように、それ自体に魅力や特徴が多そうな飲食物は難しくありませんか?
鈴木
チョコレートのように、特徴や属人的な思い出がすでにあるものを説明するときほど、“自分が本当に思ったこと”だけを言おうと意識しているかもしれません。
たとえばチョコレートだったら、「バレンタインの思い出の味」「好きな人と手をつないだときの味」などと簡単に言おうとすれば言えてしまう。けれど、自分が本当にそれを思っていなかったら言わなくていいと判断しているんです。
実際に「チョコレートの味を説明する」の動画の中では「しょっぱい」とか言ってるんですけど、本来はチョコレートの味にしょっぱい要素ってないんですよね。でも、自分がチョコレートを食べた瞬間、強い甘さの中にほんの少し苦みを感じて。それがしょっぱさに近い刺激だったから「しょっぱい」と言った……という感じなんです。
—これまでに「説明」してきたものの中で、鈴木さん自身が気に入っている表現はありますか?
鈴木
水道水の説明のときに、「鏡の味」と言ったんですよね。わけがわからないんだけれどそのときの自分は本当にそう思ったんだろうし、水道水の「すべてを受け入れつつ弾いている」みたいな感じを表現できたという意味では、よいことが言えたのかなと思います。
あと、「コーヒーの味を説明する」の中で「焼いた時計の後ろの味」と言ったんですが、それを見たWebメディア「オモコロ」の原宿さんがXで「コーヒーって確かに『焼いた時計の後ろの味』かもしれない」と言ってくださって。
自分としてはクリーンヒットみたいな気持ちはまったくなかったんですけど、誰も言及したことがなかった真実みたいなところに一瞬だけ触れられたのかもしれない、と思いましたね。

抽象的な内側を具体化する方法が「言葉」
―自分が本当に思ったことだけを言いたい、という気持ちはもともと強かったのでしょうか?
強かったような気がします。
学生時代、クラスの中で「〇〇じゃね?」という語尾が流行った時期があって。それにも僕はあまり乗れなかったというか……。
どんな理由でみんなが「〇〇じゃね?」と言っているのかわからなかったんですよね。内発的衝動が言葉にちゃんと付随しているのか? というのが不思議だったんですよ。
―みんな、心から「〇〇じゃね?」と言いたくて言っているのか? と。
いま振り返ると、おそらくあれは「あなたと同じ言葉を使っている私はあなたの仲間ですよ」という一種のアピールでもあったとわかるんですけど、自分だけついていけていない感覚はあったんです。本当に思っていないことでもみんな言えるんだな、って。
その違和感は就職活動のときにも強く感じて、社会の9割くらいは思ってもいないことを言うことによって成り立っているんだなと思ったときに、「あ、自分って本当に思ったことしか言いたくないんだな」って気づいたんです。僕は本当に自分がしたいことしかできないし、言いたくないことは言えないんだなって。それも芸人を志した理由のひとつですね。
―会社員として働くとなると、思ってもいないことを言う必要がある局面も出てきますもんね。
そうなったらたぶん、24時間中12時間くらいは「会社の人」をやらないといけないわけじゃないですか。僕はその点で言うと、24時間中24時間「この私」でいたいという感覚が強くて。バイトとか全然できないんですよ。

―鈴木さんはすごく淡々とされている印象がありますが、感情の揺らぎ自体、もともとそんなに大きくない?
子どもの頃からそうでしたね。野球チームの最後の引退試合で負けたときにも泣かなかった記憶があるんです。周りは当然みんな泣いていて、中には本当に悔しくて泣いていそうな人もいるし、「さすがにあいつは自分から泣きにいってないか?」みたいな人もいたんですけど(笑)、「僕は自分だけの力では泣けないな」とそのとき思って。
―鈴木さんは短歌やエッセイも書かれていますが、芸人活動という身体表現から離れて「言葉」に向き合うときは、また違った楽しさがありますか?
そうですね。新しい肉体をまたひとつ手に入れられそう、みたいな嬉しさがあります。
自分の外見が具体的なものだとしたら、内的な自分って抽象だと思うんです。いちど抽象化した内的な自分をまた別の方法で具体化する方法が、短歌やエッセイといった文章表現なのかなと。だから言葉にすることで、オタマジャクシから足が生えるときのような感覚があるというか。句点をひとつ打ったりするたびに、ひとつの身体が新たに生まれていく感じがするんですよ。それは自分にとっては喜ばしいことだと思います。

鈴木ジェロニモさんのプチ歌集『晴れていたら絶景』(発行:芸人短歌)
あと、小説家の方がインタビューの中で「言葉が言葉を呼ぶような感覚で、気がついたら書けていました」とおっしゃったりするじゃないですか。あの感じもちょっとわかる気がするんです。短歌をつくっているとき、言葉が新たな言葉を呼んでいく感覚ってたしかにあるんですよ。
―この言葉の次にはこれがくるはずだ、というような予感があるんでしょうか?
たとえば、自分があるシーンを短歌にしようと思った時点で、すでに世界としての答えは決まっているというか。僕には見えていないその答えに近づくために言葉の形を整えていくと、あるとき「あ、これが答えだったんだ」と納得する瞬間がくるんです。パズルみたいな感覚なんですかね。
最初に骨を置いて、次の骨を置いて……と続けていくうちに、初めからそこにあったかのように自然な1本の腕が完成している。それが心地よくて文章を書いているところはあるかもしれないですね。

―鈴木さんが何かを言葉にしたいと思うときって、どんなときですか?
いまの自分は、“本当のこと性”みたいなものをおもしろがっている気がしています。
―本当のこと性?
たとえばちょっと前に、小さい子が赤信号を前にして横断歩道で待っているのを見たんです。その子が赤信号に向かって「3、2、1、えーい!」と声をかけたタイミングでちょうど青信号になったんですけど、「僕が魔法を使ったから青になったんだよ」と親に向かって言っていて。それって本当だと僕は思ったんですよ。
事実としてはもちろん違って、単に交通ルールの適切な尺に則って赤から青に変わったわけだけれど、でも彼がその瞬間、自分の魔法によって信号が変わったと思ったこと自体は本当だと思ったんです。
―たしかに、それを嘘だとは否定したくないですね。
その人自身が100%信じていることのピュアさや美しさ、と言えばいいんですかね。それを言葉にできたらいいなと、よく思っています。
言葉というシューズを履くのが一番速く走れる方法かもしれない
—鈴木さんは、何かを「説明」したり言葉にしたりすることによって、日常の見方が少し豊かになったと感じることはありますか?
豊かになった、ということはあんまりない気がするんですけど……。「元から豊かだったものを見ないようにしてたんだな、自分は」と思うことはあります。
つまり、言葉にすることによって価値が反転しうるというか。仮に、過去に自分が「楽しくなかった」と捉えている思い出があったとしても、それが「社会的楽しくなさ」だったのなら、「個人的楽しさ」にもなれる可能性を持っていると思うんですよね。
—「社会的楽しくなさ」と「個人的楽しさ」……ですか?
はい。たとえば、大学の中でぼっちでご飯を食べていた記憶が自分にあったとして、それはたしかに社会的な目線から見ると「楽しくなかった」思い出になってしまう。けれど、誰かに合わせて誰かの決めた場所でランチメニューを食べるんじゃなく、自分が本当に食べたいものを自分が本当に食べたい席で食べていた思い出だと解釈すれば、それって個人から見ればめちゃくちゃ豊かな思い出でもあると思うんです。これはある種、芸人的な感覚なのかもしれないとも思います。一番嫌だった思い出こそ一番の笑い話になる、みたいな。
全員にそれが当てはまるとは思わないけれど、「こちら側から見たら、見え方が変わるんじゃないか?」という可能性を常に持っていてもいいのかもしれないですね。水道水の味や1円玉ですら、無意味なものとも言えるし「鏡の味」「宇宙の素材」とも言えるわけですから。

—鈴木さんのお話を伺っていると、社会や常識に規定されない“自分の中の真実”を追求して言葉にすることのおもしろさをひしひしと感じます。
真実にフィルターをかけたり幕を被せたりして「そんなに深く見なくてもいいか」と距離をとる態度が本来の社会的な生き方だと思うんです。ふつうに生きていたら、水道水の味を30分かけて説明する必要とかまったくないはずなんです(笑)。
—自分が感じたことを言葉にするのが苦手という人も多いと思うのですが、鈴木さんからそういった方に言語化のためのヒントを伝えるとしたら?
そうですね……正直、僕自身も「言葉にしたい」という思いがすごく強いわけではないんです。ただ、自分の中にある本当の世界みたいなものに触れようとしたときに、一番扱いやすい武器がいまのところは言葉なのかもしれない、と。
人によって、それはダンスや歌だったり仕事だったりするのかもしれない。僕にとっては、言葉というシューズを履くのが一番速く走れる方法なのかもしれない、という感覚があるというか。
—自分が感じたことを伝えるための武器は、必ずしも言葉である必要はないと。
はい。その上で「言語化がしたい」という方に何か伝えられるとしたら……以前似たような相談を身の回りの人から受けたときは、「SNSの裏アカに書いている言葉を表に出すのが一番早いと思います」と言ったんです。なぜならそれってたぶん、本当のことだから。
—たしかに、フォロワーが10人くらいしかいないアカウントで自分が書いていることって一番自由な気がします。
そうですよね。他人に見られる前提で書いていない言葉を出すことが、もっともその人らしさにつながるんじゃないかとは思います。自分だけの表現の種になりうる、というか。だから、アドバイスとかするつもりはまったくないですけど、僕からのメッセージは「裏アカを公開せよ」ですかね。

取材・執筆:生湯葉シホ 撮影:品田裕美 編集:桒田萌(ノオト)

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