ほっとできる場所が街にある豊かさ。廃業寸前だった銭湯を蘇らせた「ゆとなみ社」湊三次郎さんが守りたいもの
となりの偏愛LIFE

ほっとできる場所が街にある豊かさ。廃業寸前だった銭湯を蘇らせた「ゆとなみ社」湊三次郎さんが守りたいもの

#アイデア・工夫 #カルチャー #キャリア #ライフスタイル #仕事・働き方

日々をいきいきと過ごしている人=さまざまな「好き」を探究している人にお話をうかがう連載企画「となりの偏愛LIFE」。第17回のゲストは、京都を拠点に近畿・東海地方の銭湯11軒を再生した「ゆとなみ社」代表、湊三次郎さんです。


学生時代に銭湯に魅せられ、日本中およそ700軒を巡るほどの愛に目覚めた湊さん。大学時代にアルバイトをしていた『サウナの梅湯』が閉業に危機にあると知り、24歳の若さで跡を継ぎました。しかし、待っていたのはさまざまなトラブルで、ときには「偏愛」が薄れそうになったことも。


それでも銭湯を愛し、再生・経営する理由とは。全国の銭湯が激減する昨今、それでも「銭湯を日本から消さない」を信条にしながら立ち向かう湊さんに、銭湯の魅力についてお話を伺いました。

「銭湯は早く行かなきゃなくなってしまう」という現実を知った

—湊さんが銭湯を初めて体験したのは、いつですか。

高校2年生です。きっかけは横浜旅行でした。静岡の浜松に住んでいたのですが、都会へ行きたくて、青春18きっぷを利用して友達と「横浜を旅しよう」という話になったんです。


とはいえ高校生の小遣いで旅行するわけですから、お金がない。それで安い宿を探したところ、1泊3,000円程度という激安のホテルを見つけたんです。


辿り着いたら、そこはいわゆるドヤ街と呼ばれる場所でした。ホテルは質素で、部屋には布団が敷いてあるだけ。シャワーはあるけれど風呂はない。すると宿の人が「近所に銭湯があるよ」と教えてくれたんです。自分が住んでいた地域には銭湯がなく、初めての体験でした。

—初めての銭湯は、いかがでしたか。

番台におばあさんが座っている昔ながらのタイプでした。そして浴室に入ってみると、背中に刺青が入っているおじいさんがいて、他のお客さんと仲よく話をしている。驚いて友達と「ここにいる人たち、みんなヤクザなのかな?」「とんでもないところに来ちゃったな」とささやきあいました。


旅から帰ってきても、あの独特な濃い光景が頭にずっと残っていたんです。カルチャーショックというか。そうしてだんだん銭湯が気になりはじめました。

湊三次郎さん

—銭湯との出合いは衝撃的だったのですね。その後、銭湯を利用するようになりましたか。

なりましたね。京都外国語大学に受かって、高校卒業後は京都で下宿をはじめたんです。下宿先は近所に銭湯が何軒もある場所で、ほっつき歩きながら、あちこち通うようになりました。一軒一軒、雰囲気が違うのがおもしろくて、次第に地図を見ながら京都中の銭湯を自転車で巡るように。時間だけはたっぷりありましたから。


銭湯巡りに拍車をかけたのが、2010年に廃業した白川温泉です。80年の歴史があって、昭和1ケタ台で時間が止まったままのような厳かなつくり。神聖な感じすら覚える、すごい激渋銭湯でした。


感激して番台のおじいさんに話しかけたら、「実は2週間後に取り壊すんだ」とおっしゃった。こんな素晴らしい場所がなくなるのがショックで、「銭湯って早く行かないと消滅するんだ」と気がついたんです。

—私も京都在住ですが、我が家の周辺の銭湯もどんどん廃業しています。

京都はこの10年ほどで半数にまで減りました。自分の学生時代は160軒くらいあったのが、現在は80軒台。10年後には30軒台にまで減少すると予想されています。だから廃業情報を聴くと必ず飛んでいって、その銭湯を体験するようにしていました。鉄道オタクが廃線の決まった路線に乗りに行く、そんな感覚でしたね。

全国700軒の銭湯を巡った学生時代。1日3軒まわる日も

―大学時代、何軒の銭湯を巡られたのですか。

およそ700軒は行きました。京都だけではなく、銭湯へ行くためだけに全国を旅するようになったので。

―700軒ですか! すごいですね。

沖縄以外、全国の都道府県を巡りました。2010年頃になると、激渋系の銭湯がディープスポットというかたちでじわじわ注目されるようになってきたんです。マニアの方たちが銭湯探訪のサイトやブログを起ち上げるようになり、なかには「こんな銭湯があるんだ」と驚くような場所もあって、内容がすごくおもしろかった。


そうして自分も先人たちが訪れた銭湯を追体験してみたいと思うようになり、全国を旅するようになったんです。「ここがブログに載っていた、あの銭湯か」「こんな古い銭湯がまだ残っているのか」と感動しながら、2泊3日で1日3軒まわる感じでしたね。

銭湯をサブカルチャーやアンダーグラウンドの視点で捉えられていたのでしょうか。

アングラやインディーズの文脈で銭湯を見ていた部分はあったかもしれません。泉質や効能にはぜんぜん興味なかったし。とにかく当時の自分はトガッていて、「他の人と同じ趣味を持ちたくない」と思っていました。そこに銭湯がちょうどハマった。当時は今ほど銭湯やサウナが流行していなくて、大学生で全国の銭湯巡りをしているやつなんて、他にいませんでしたから。


おかげで銭湯がなければ絶対に訪れないエリアを散策できたし、銭湯がローカルに根差している現場を自分の目で確かめられた。神社仏閣のような荘厳な銭湯があるかと思えば、壁にガラスブロックが埋め込まれたカラフルな銭湯もあって、地域性や多様性を感じました。


廃業する前にぎりぎり間に合った銭湯もたくさんあります。いい経験でした。当時の銭湯マニアたちのサイトやブログが自分の銭湯観を広げてくれたので、今でも感謝しているんです。

旅先で出合った、心に残っている銭湯はありますか。

やっぱり岡山の清心温泉と三重・伊賀上野の一乃湯ですね。どちらも昭和からある古い銭湯なのですが、単に店を開けるだけではなく、自分たちでリーフレットを制作して集客に力を尽くしていたり、地元のお店とコラボしていたり、Tシャツなどグッズを作って物販の収益を得たり。オーガニックのシャンプーを置く取り組みもかなり早い段階からやっていて。東京のような都会ではなく、地方でこういったムーブメントが起きていることが、学生だった自分にはとても刺激的でした。


清心温泉は、先代で廃業していた銭湯を3代目のご主人がサラリーマンをしながら復活させた経緯もありました。月に数回しか開かないんですが、開店する日はご主人が自ら焼き鳥を調理して売るなどしていて。地元の人たちが集まって、すごく盛りあがるんです。コミュニティの中心地になっていて、銭湯のソフト面の強さを見せつけられた気がしました。衰退産業と呼ばれる銭湯ですが、未来に希望を感じた体験でしたね。

梅湯の入り口のそばには、野菜が販売されている

ご自身は学生時代に銭湯でアルバイトした経験はあったのですか。

ありました。やっぱり銭湯が気になるので、大学2年生の頃から始めました。もっとも長く働いたのが上七軒にある桜湯。次がこの五条にある「サウナの梅湯」です。3年生の終わりから、ここ梅湯でアルバイトをしていました。

銭湯の経営を引き継いだ後、次々と難題が襲いかかり愛がなくなったことも

―湊さんが運営者として梅湯を引き継がれたのはいつですか。

2015年、24歳のときです。大学を卒業して一度アパレル関係に就職したんですが、会社員が肌に合わなくて、すぐ辞めちゃったんです。「これからどうしよっかな」と考えているときに、梅湯を運営していた方が退かれると聞いて、「じゃあ、自分でやっちゃおう」と。

―梅湯でのアルバイト経験があったとはいえ、24歳でいきなり経営を始めるなんて、度胸がありますね。不安はなかったですか。

なかったです。アホなんで(笑)。

―衰退産業と言われた銭湯を実際に経営してみて、いかがでしたか。

いろんな問題がありました。ハード面で言うと、漏水問題が一番しんどかったです。浴槽が老朽化していて、一晩でお湯が空っぽになるほど漏れるんですよ。そして、初めて修繕を頼んだ業者から、通常よりもかなりの高額な工事費を請求されてしまい、それでも漏水がまったく止まらなかった。24歳の僕にはとてつもない大きな出費で、あれは参りました。その後、腕のいい方にお願いしたら、漏水はピタリと止まったんです。


ソフト面で言うと、集客が伸びないから毎月20万円近い赤字が出る。お客さんの不作法を注意すると「社会人経験もない若造のくせに、誰にものを言うてるんや」と怒鳴り返される。それはつらかったです。儲からない、昔からの常連さんからは文句を言われる、設備は壊れる、やってられない。


そういったハード・ソフトの両面での厳しさを経験して、なぜ銭湯がなくなっていくのか、跡を継ぐ人がいないのかが理解できたんです。「そりゃ、やめるよな」って。

―湊さんご自身は梅湯の経営をやめようと思いませんでしたか。

もちろん思いました。日々、考えるのは「いつやめようか」、もうそればっかり。銭湯業界からも「厳しい世界だから、若者にはどうせ無理でしょ」というふうに思われていましたしね。疲れすぎて「うちの煙突、強風で倒れないかな。そうすれば正当な理由でやめられるのに」なんてことすら考えていたくらいです。

―そんな苦境にあって、なお銭湯を続けたのは、銭湯への愛情があったからでしょうか。

いや、違います。意地でした。「偏愛」というテーマの取材なのに申し訳ないんですが、このときばかりは完全に心が折れていて、さすがに銭湯への愛がなくなりつつありましたね。


そのような状況でも銭湯を続けられたのは、多くの方から注目していただいていたからです。若いやつが銭湯の経営をするなんて珍しいので、毎月2、3本の取材が入るんですよ。そして取材のとき、記者から「20代で銭湯の経営なんて本当にできるのか?」という目で見られるわけです。


そんなふうに注目されればされるほど、やめられなくなってくる。それでやめてしまったら、ダサすぎじゃないですか。「ほら、結局やっぱりダメだっただろ」と嗤われるのも悔しいし……。

銭湯はささやかながら人々の生活を支えるもの

その後、集客は伸びたのですか。

朝の時間帯も営業を始めた日をきっかけに伸びました。朝風呂を始めると、そこにまたまた取材がきて。記事を読んだり、テレビ番組を観たりしたお客さんが来店して……というふうに相乗効果があって、次第に軌道に乗り始めたんです。さらに手伝ってくれる仲間も増え始め、他の銭湯の人たちもアドバイスをくれるようになりました。


それに、街に馴染んでくると、住んでいる人たちが応援してくれるようになるんです。ご近所のおでん屋さんが、たったワンコインで特別に晩ごはんを作ってくれたり、近くに住むおばあちゃんが「差し入れだよ」って、ジャーごと炊き込みごはんを持ってきてくれたり。


銭湯のよさであるコミュニティ拠点になるという部分を、自分自身が味わえるようになっていきました。そういう出来事もあって、この頃からやっと、再び銭湯っていいなと思えるようになってきたかな。

浴場には、スタッフがお手製で作成する「梅湯新聞」が。

中で働く人の考えていることや興味を発信しており、地域の人とのつながりのきっかけになっている。

それから湊さんは10年かけて、関西を中心に11軒もの銭湯を再生されてきたそうですね。銭湯は楽しいという気持ちが蘇ったとはいえ、漏水問題など課題は多いし、揉め事もあるでしょうから、すごすぎます。

自分、イカレてるんですよ、頭が(笑)。でも自分が好きな銭湯が、跡継ぎがいなくて廃業して取り壊しになると聞けば、じっとしていられないです。銭湯が滅びていくのを黙って見ているわけにはいかない。誰もやらないんだから、自分がやるしかないじゃないですか。

「銭湯を日本から消さない」という思いは、販売しているTシャツにも表れている

とはいえ、3軒目と4軒目は同時オープンだったので死ぬ思いでした。そして、そのしんどさが快感で、あえて5軒目と6軒目も同時オープンにしたんです。完全にマゾですね。しんどくないと気持ちが燃えなくなりました。

しんどさが湊さんのハートに薪をくべたんですね。とはいえ廃業する銭湯を蘇生させるのですから、資金繰りも大変だったのでは。

お金は……会社の利益は大事なので、ちゃんと考えます。利益が出ないならば、やれないですよ。でも、自分自身の給料なんて、たくさんはいらないです。家族はいないから家計費はかからないし、高い服を着たいとも思わないです。そのぶん、銭湯に全額を注ぎ込めるんです。

ご自身を「マゾだ」とおっしゃっていますが、自分を追い詰めてまで次世代へ銭湯を継いでゆこうとするほどの魅力は、どこにあるのでしょう。

人々の日々のいとなみ(生活)が、何十年とかけて建物や空間に刻まれているところが銭湯の魅力だと思います。だから、うちの会社は「湯」と「いとなみ」を合わせて「ゆとなみ社」と名づけたんです。

そして「ゆとなみ」は、反対から読むと「みなとゆ」になります。ゆとなみの中の湊湯は、新規で銭湯を作らない、継業しかしない、また屋号を変更しないからこそ、湊湯を社名に隠しました。


500円ほど払えば、ほっとできる場所が近所にある。それって、とても豊かなことだと思うんです。これからも銭湯が人々の生活をささやかながら支える場所であり続けられるよう、努力していきたいです。

PROFILE
川村健一

湊三次郎

サウナの梅湯/ゆとなみ社

1990年生まれ。銭湯活動家。京都在住。2015年、京都市下京区にある「サウナの梅湯」を承継。以来、老朽化したり跡継ぎがいなかったりする銭湯11軒の蘇生に成功する。2022年に「銭湯を日本から消さない」をモットーとする銭湯継業の専門集団「ゆとなみ社」を法人化した。本名は湊雄祐。銭湯活動する際、曽祖父の墓に彫られていた三次郎を名乗る。2023年に京都や滋賀を拠点に活動し、顕著な功績を上げた個人や団体をたたえる「京都新聞大賞」を受賞。


ゆとなみ社HP:https://yutonamisha.com/

サウナの梅湯 X:https://x.com/umeyu_rakuen

サウナの梅湯 Instagram: https://www.instagram.com/umeyu_rakuen/

CREDIT

取材・執筆:吉村智樹 撮影:木村華子 編集:桒田萌(ノオト)

ブランド名

商品名が入ります商品名が入ります

★★★★☆

¥0,000

PROFILE

山田 太郎

CO-FOUNDER & CTO

親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。

山田 太郎

CO-FOUNDER & CTO

親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。

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