親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。
さまざまな価値観が交錯するこの時代、自分自身の生き方・働き方にどう向き合う? エッセイ連載「わたしと、シゴトと」では、毎回異なる書き手が、リレー形式で言葉をつむぎます。
今回の寄稿者は、向坂くじらさんです。詩人と国語教室の運営という二本柱で生活する中で、“正気”でいるための方法があるそう。その舞台となるノートで繰り広げる言葉や思索について、綴っていただきます。
ノートを広げて正気に戻る
布団のなかでまぶたがひらいて、意識が戻ってくる瞬間、けれどわたしはまだ正気ではない。寝起きのだるさが抜けるまで体をあちこち動かし、やっと立ち上がって階段を降り、うがいをしていても、まだ正気ではない。水を飲んだらもうリュックを背負い、30分離れたカフェまで歩く。コーヒーとモーニングを注文して、届くまでのあいだに机の上にノートを広げる。それから日付と時刻を書く。
5/14 8:12
そのとき、わたしははじめて正気に戻る。
もっぱら家で働くようになって、5年あまりが経つ。その期間になにより身につけざるをえなかったのは、正気を保つ方法だった。自分を信用せずにいる方法と言ってもいい。
わたしの仕事は詩人と国語教室運営との二本柱で構成されている。会社員を試した時期もあったけれどふたつの会社を順繰りにクビになり、書くことと教えることだけが残った。いまはだいたい、朝から昼間にかけて執筆の仕事をして、夕方になると子どもたちがやってきて、授業がはじまるということになっている。大まかに言えば授業の前と後とで、決まりごとなしにひとりで過ごす時間と、時計に合わせて子どもたちと過ごす時間とに分かれている、ということだ。9時に授業が終わるとたいてい夫が勤めから帰ってきていて、そこからご飯を食べる。わたしたちは早寝の夫婦で、しばらくおしゃべりをしたりゲームをしたりしているともう眠たくなり、11時くらいには寝ついてしまう。
だから朝から授業までのあいだで仕事を片づけないといけないのだが、ひとりでいるとわたしはすぐに、正気でなくなる。窓の外やSNSやYouTubeや自分の手足なんかをながめていると、その情報量の多さにいともたやすく正気を奪われて、戻ってこられなくなる。正気でないあいだのわたしは、狂気でさえない。狂気ならばまだよいのだ。正気でないときには、どこへもつながっていかない断片的な感覚だけが頭のなかを埋め尽くし、さらにその状態をごく自然なものだと感じている。目覚めてみてはじめて眠っていたことに気づくように、正気でいない間には、自分が正気でないことには気づけない。
そこからついに抜け出せなかった日でもいちおう、生徒が来る時間が近づくと、強制的に正気に戻ってくる。そこではじめて、何をやっていたんだろう、と思う。画面をこすり、水を飲んでは排泄し、情報もまた呑んだそばからみんな忘れて、わたしは何をやっていたんだろう。そんなことをしているようでは、何日あっても何もできない。
だからなるべく早く、ひとりの時間に、正気に戻らなくてはいけない。それが、わたしの最も大きな課題になった。すぐに断片の世界へ倒れていこうとするわたしを、なんとかつかまえておかないといけない。顔を洗うとか、ひとりだとしても外出着に着替えるとか、フリーランス向けのよくあるルーティンもあれこれ試したけれど、どれもそこまで役に立たなかった。
そうして結局わたしのもとに残ったのは、これもまた、書くことだけだった。

基本的にA4サイズの大きなツバメノートを愛用、持ち運ぶときは小さいノート
文字にすることで考えを捨てる
ここからわたしの、仕事術と呼ぶにはあまりに貧しい仕事のようすを、ノートをもとにつぶさにふりかえってみたい。なにしろわたしのノートには、それがみんな書いてあるのだ。日付と時刻を書いたら、とりあえず捨てるみたいになにか書く。
5/14 8:12 コメダ珈琲 5/14なのかよ 詩集一段落しておちつく けど、その他すべてが犠牲になっている あー 悔しい 悔しいとはっきり言っていきたい くやしいよ 自分が自分にのぞむだけのしぶとさや すばやさが 自分になくて。
似ていることをしている人がいないか調べてみると「モーニングページ」というのがあって、それは頭のなかに浮かんだことを30分3ページ分書きつづけるんだそうだ。わたしもやってみたけれど、正気を取り戻すには向かなかった。30分も書いてしまうと多くのトピックスを書けすぎて、気が散るチャンスが多すぎる。だからここで書くのは、ひと息で書ける程度のことにとどめる。だいたい時間はそんなにない。
それから、しないといけないことを思い出す。思い出すまではどうしようもなく忘れているのだ。と言ってもタスク管理として書き出すほどの能力はなく、直後にやることだけを書く。
とにかく メール返信。しかしいい詩集で慢心してきた
すでにちょっと考えがはみ出してこそいるけれど、そうするといちおう、意識の右上のほうに「メール返信」という文字列が並んだような感覚になる。けれどブラウザを開いた瞬間、わたしはふたたび何をしようとしていたか完全に忘れ、「きゅうり 支柱」で検索をかける。カフェに行くときの視界の隅に、今年はじめて庭に植えてみたきゅうりが力なく匍匐(ほふく)しはじめているのが見えていたのだ。簡単に組み立てられる支柱の通販ページを開いたくらいで、おや、と思ってノートを見返す。すると、「とにかく メール返信」と書いてある。数分前の自分に深く共感し、ほんとにそうだなと思う。とにかくメール返信である。
そうして支柱の通販ページを閉じ、やっとメール返信作業をはじめることができる。それが終わるとノートを開きなおし、また溜まってきた考えを文字にして捨てるところからはじめる。
ふたり というのはよい 稽古がしたい。しかし(人名)も(人名)も手に負えない。そしてわが友だちはそれで打ち止め。けつろん:手に負えない人しか好きじゃない。ほんとひどいな。11:50 メール返信おわり えらいんだか えらくないんだか えらいんだか えらくないんだか!
今日このあと 書評
そうしてやっと仕事に取りかかる。執筆作業はメール返信と違って、新規ファイルを開いても一切わたしを誘惑しないところがいい。書きはじめる前のMicrosoft Wordには新着ニュースのヘッドラインも、トレンドワードも、関連コンテンツも出てこない。ただ白紙が広がっているばかりで、見ているだけで苦しくてうれしい。
ここでもちょっと何か調べようとブラウザを開くと、ついでにまたメールボックスを開いたりSNSのようすを見たりしてしまう。そして、またノートを頼りにする。すると「書評」と書いてあるから「わかる」と思ってブラウザを閉じ、書きかけのWordに戻ってくるのだ。

執筆作業の日のキウイバード
ノートであることは、連続しているということ
そんなふうに、仕事をしながらリアルタイムでノートを書きつづけることで、なんとか正気を保てている。わたしのばあい、仕事前にタスクを書き出したり目標を立てたりしても、見返すのを忘れてしまってあまり意味をなさず、仕事後に記録を取ろうと思っても、なかなかその時間をうまく作れない(大前提として仕事が好きだから、取りかかるまでは億劫だったくせ、いざはじめたら時間ギリギリまでやりたくなってしまう)。
だから仕事とは関係ないこともふくめて思いつくまま書きつけつづける、というのが、わたしが正気でいられる最適な方法になった。頭のなかにはいつも断片が散らばっていて、一旦それを捨てるところからはじめないといけない。その工程ができるのもいい。
書く仕事はノートパソコン1台あればどこでもできるけれど、ノートがないと何もできない。そういう意味で、わたしの仕事の場所は、ほんとうはノートの上にあるような気がしている。だからノートと、キウイバードのかたちの筆箱を、どこに行くにも持ち歩く。そうすればどこでも仕事をはじめられるし、何度も正気に戻ってこられる。
おかげで最近は、はじめにも書いたようにカフェで仕事することが多く、それもまた自分を信用しない手立てのひとつだ。数ある自分のなかでも、家にいる自分というのはことさら信用がおけない。それから集団のなかに混じっているときの自分も。だからひとりでノートなのだ。正気はあまりに容易く失われてしまうから、いつも気をつけていないといけない。
ノートである、ということは、つまり連続しているということだ。紙片やデータ上のテキストメモや手の甲ではなく、ノートである。「なくさない」と書いた紙をなくし、「忘れない」と書いたメモを忘れるわたしだ。けれど糸で綴じられたノートなら、すぐにちりぢりになっていくわたしの断片を、明日のわたしへ連ねることができる。ノートの上で、わたしはなんとか正気を、連続したわたしを保つ。
5/15 8:10 わからんね 損得さえ。義理もない 損得もない それじゃ 何でうごいてるの おまえは。うーん、おもいつき……
うわ ノートの糸がほつれてきてる いっぱい書こ
執筆、写真提供:向坂くじら 編集:桒田萌(ノオト)

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