会社員、独立、そして会社員。足掻いて見つけた「ちょうどいい働き方」とは|デザイナー・スワン
わたしと、シゴトと

会社員、独立、そして会社員。足掻いて見つけた「ちょうどいい働き方」とは|デザイナー・スワン

#アイデア・工夫 #キャリア #ライフスタイル #仕事・働き方 #在宅ワーク

さまざまな価値観が交錯するこの時代、自分自身の生き方・働き方にどう向き合う? エッセイ連載「わたしと、シゴトと」では、毎回異なる書き手が、リレー形式で言葉をつむぎます。


今回の寄稿者は、デザイナーのスワンさん。20代後半でデザインに関する教育事業を開始させたり、そのほか事業デザインなどを行ったりしながら活躍し、プライベートでは第一子を出産。公私ともに充実しているようでありながら、その内側にあったのは働くことに対する得体の知れない大きな葛藤でした。そんな中迎えた新たなライフステージと、その先に見つけた「ちょうどいい」働き方とは。

働き方における「ちょうどいい」を探して。

わたしは現在、EV事業などを行うエネルギー系のスタートアップの正社員として週5日働いている33歳のデザイナーだ。


現在の会社は4社目で、在籍期間がようやく8ヶ月と少しが過ぎたところ。組織規模はまだまだ小さいほうといって差し支えないだろう。ハードウェアなどリアルが介在するプロダクトを扱っているので出社スタイルがベースだが、当日でも気兼ねなくリモートに切り替えられるような、そんな柔軟性がある会社だ。


社内では他愛もない会話が飛び交い、時に真剣に仕事の話をする。仕事帰りにちょっと飲みに行ったり、同僚と昼休みに軽い運動をしたりすることもある。わたしは決して社交的なタイプではないのだが、絶妙な距離感が保たれている職場であり、居心地がいい場所でもある。


さらには個人の趣味として長野のアルプスを登山したり、YouTubeで動画配信をしたり、友人とPodcastを運営したりしている。とにかく興味が赴くまま、思いつきで行動しているタイプの人間だ。


ちなみに家族構成は夫と、もうすぐ2歳になるひとり息子。急な熱や保育園の呼び出しもあるが、夫もIT系で融通が利きやすく、夫婦で分担しながらいわゆる核家族を都内でやっている。自分で言うのもなんだが、とても仲のいい家族だと思う。


……とまぁ、いざ今の自分の行動を客観的に紹介してみると、何とも現代的で、さぞかし上手くライフワークバランスとやらを組み立てている人だと誤解されそうで困ってしまう。それは大変申し訳なく、ひどくむず痒い気持ちになる。


実際、今の働き方や暮らし方は、わたし史上もっとも「ちょうどいい」ものと言えるだろう。


仕事は食うためだけのものではないし、かといって心身をすり減らして摩耗するような、過酷な環境に晒されているわけでもない。でもちゃんと踏ん張りどころがあり、目標があり、やりがいも感じている。もちろん仕事だけではなく、家族としても、わたし個人としてもプライベートな時間や活動がしっかり存在している。


一見それは、他の誰かにとってはユートピアのように映るかもしれない。また誰かにとっては、中途半端で生易しいものにうつるかもしれない。


しかしそんなわたしが今の状況に至るには、実は10年ほどの長い月日がかかっている。そしてその10年間は、「バランス」だとか「心地よさ」とは無縁の、行き当たりばったりの、欲と打算にまみれた意地汚いものであった。今でも古傷が痛むような働き方を何回も繰り返し、時には心療内科にお世話になることもあるほどに、わたしも自分のキャパシティを超えて働き詰めた時期が何年もあった。


今日は、そんなわたしが働き方における「ちょうどよさ」にたどり着くまで、暗がりの中もがいて足掻いたみっともない旅路を、少しだけ皆さんに共有しようと思う。

働くことに逃げた20代。

大学を出てすぐの22歳、当時のわたしは「働き方」も「環境」も、与えられるものだと思っていた。


渋谷のITベンチャーに就職したわたしは渋谷の道玄坂の路肩を、ジーパンにスニーカーという非常にラフな服装で足早に歩いていた。定時は10時から夜の7時、週5勤務。会社には支給のパソコンがあり、デスクも椅子も備え付けであった。時代はまだコロナ禍前、リモートワーク文化が強制的に社会に馴染む10年も前のことである。

当時、とにかく仕事一辺倒な働き方だった。


20代は自意識とコンプレックスに押しつぶされそうになっていた時期であり、とにかくセンスや能力などの社会的な価値を身に付けたくて必死だった。その不安をかき消すように朝昼晩、週末も問わずとにかく働いた。週の半分はチームの人や同期と遅くまで飲み歩いた。


近年のライフワークバランス、という言葉からするとドン引きされるような働き方だったと思うが、起きている時間のほとんどを会社で過ごし、深夜を過ぎると寝るだけの家に帰った。頑張れば頑張るほど評価されたので、一種の快感すら覚えていたように思う。


4年目の終わりに転職をし、またよく働いた。何ならさらに欲が出て、複数の副業まで始めた。ランチは5分で済ませ、残りの55分を副業の作業時間やミーティングに充てていた。繁忙期以外は仕事を効率良くこなして定時内に収めつつ、夜はまた副業の仕事をこなした。


そこからさらに数年後、20代の終盤戦に差し掛かったところでわたしは独立をする決意をした。


キャリアを重ねていく中で多少の自信は持てるようになり始めていたが、最後まで心残りとなっていた「デザインをするだけでなく、ちゃんとビジネスを回せる人にもなりたい」という気持ちに手をつける決心がついたからだ。


また、それは20代後半の結婚を機に、いつか向き合うことになるかもしれない「出産」という一大イベントが脳裏をよぎったからでもあった。現実問題としてそのカードを切るかは当時も全く自信が持てなかったが、あと戻りできない世界に足を踏み入れる前に、自分の中でのケジメというか、できる限り納得して進むための足掻きをやり切りたかったのかもしれない。


なけなしの貯金を元手に、自分で事業を始める。でも、プランはかなりふんわりしている。今思えば、何とも見切り発車な退職であった。

独立と、働き方のゲシュタルト崩壊。

独立した2020年の矢先、予想外にも世界は新型コロナウィルスの大騒動に突入した。

4月の頭には日本でも初めての緊急事態宣言が発出され、晴れて独立して自由になったというのに、わたしは自宅からほとんど出ることができない状況に置かれたのだった。パソコン一つあれば仕事が完結する職種であったことは幸いで、食べていくのには全く困らなかったが、自分の頭の中でキャリアと金銭的な不安が重くのし掛かり、結果として会社員時代以上にとにかく働きまくった。忙しくできるほど仕事をいただけたのは有り難かったが、独立した初年度は週に7日は働くセルフブラック企業状態であった。


さらに、何を血迷ったのかYouTubeでの発信を始めたり、本も出版したりと、まさに飢えた獣のようにあらゆるものに手を出しまくっていた。当時のわたしは、手を動かしていないと不安で不安でしょうがなかったのだと思う。


しかし、そんな働き方を長く続けていれば当然「歪み」が出る。


会社勤めから独立後までの道のりであまりにも心身に負荷をかけたせいか、はたまた勝手な自分へのプレッシャーからか、慢性的な鬱々しい状態が少しずつ常態化するようになった。みんなが頑張っている間に、自分だけ1人でサボっているのではないかという罪悪感。仕事では成果を求め、事業作りでは答えのない問いを自らに向ける日々が続いた。オンライン会議では頻繁に人と話したが、家族以外とは全く雑談をしない日々が続いた。


近所のコンビニにコーヒーを買いに行くのすら躊躇いが生まれるぐらいに、わたしはおかしくなり始めていた。

サボることを極める。

独立して一年と半年が経った頃、わたしは真剣に「サボること」に向き合い始めることにした。過剰に働く中で多少の貯金と実績は増えたが、同時に心身を何度も壊しかけた。予防的に心療内科にお世話になったこともあった。そしてそんなことをしているうちに、自然と「こんな働き方、生き方をしていては到底長くやっていけない」という結論に至った。


サボると決めれば、話は早かった。


何せわたしを評価する上司もいなければ、就業規則があるわけでもなかったからだ。ワークスペースと食事する場所を分けてみたり、早朝に散歩をしてみたり、寝る時間を徹底的に守ったり。面倒くさがりなわたしだが、平日の食事にも気を使うようになった。仕事を受けるルールを設けたり、考え事をする時間にも自ら制限をつけたりもした。罪悪感を覚えながらも旅行に出かけたり、ブラブラと平日の街を散策したりした。


それは恐らく、社会人になってから無意識に積み重なっていた傷跡をケアする時間であり、会社員時代には全く考えたことのなかった「自分にとってちょうどいい生き方」を模索する、不思議な時間でもあった。


しかしそんなことをするうちに、予想に反してわたしはサボることがめちゃくちゃに上手くなった。上手くなりすぎて、一時期は週の半分ぐらい遊んでいるような時期もあったぐらいであった。知らない人から見れば、わたしは間違いなくサボっているように見えていたと思う。


まあでも、食べるのには困らない程度には働いた。


逆にいうと「これぐらいでも食べていけるんだな」という事実が衝撃的でもあった。自分がこれまで信じて疑わなかった何かが、ガラガラと崩れる音が脳内で鳴り響いていた。「今までの自分とは何だったのだ」という、絶対に問うてはいけない質問を必死に自分の中で押さえ込んでいた。

仕事からの強制離脱。

しかしそんなことをしているうちに、まあ不思議な話ではあるのだが、なぜか自然と「いっちょ、子どもを産んでみるか」という気持ちになった。


自分の中で仕事をある程度やり切ったという達成感。また、自分の中の働き方に対する幻想が霧散し、夢から覚めたわたしには泥臭い現実の手触りだけが残っていた。それは欲しかった安堵でもあり、同時に自分の器の限界を感じて生まれた無力感でもあった。そして今思えば、仕事という脅威から「強制離脱する理由が欲しい」という、まあなんとも情けない逃避行であった気すらする。


しかしそんな甘い思いでいざ妊娠してみると、今度はまた別の災難が訪れた。自分はつわりがとんでもなく重いタイプだったのである。


妊娠初期の約3ヶ月間、まるで廃人のような日々が続いた。起きていても寝ていても気持ちが悪く、口に何かを入れなければ吐きそうになる、所謂「食べづわり」であった。しかしいざ食べるとそれはそれで気持ち悪く、日中何度もトイレに頭を突っ込んだ。ついには何も考えられなくなり、静かな肉の塊でいることに精一杯であった。


ここまでくると、当然だが仕事のことが心底どうでもよくなった。


というかそんなことを気にしている場合ではなかった。ほとんどの業務を周りにパスし、ひとり布団の中で生きるか死ぬかの感覚に耐え忍ぶ日々が続いた。途切れゆく朦朧とした意識の中で、現代の科学技術の叡智をかき集め、どうにか出産当日まで意識を飛ばしておけないかと本気で何かに祈っていた。


そして約1年後、わたしは無事に元気な男の子を出産した。


初産にしてはめちゃくちゃスピーディーに息子は生まれてきたのだが、それでも体への負担が大きかった。でもそれ以上に、息子という生き物は大いにわたしの予想を裏切り、それはそれは愛らしかった。


あまりに安っぽい言葉だが、ついに自分が生まれてきたことの意味を見出せたような気すらした。

迷走と混乱。

しかしその産後の1年間、実はあまり記憶がない。


自分の事業もあるので産後3ヶ月で復帰をしたのだが、これが完全に災いし、人生で初めて長い軽鬱を経験した。期間は5ヶ月ほど、騙し騙し仕事をしながら投薬とカウンセリングを続けた。しかも診断によると、産後鬱ではなく仕事のストレスによるものであったから、なおさらタチが悪かった。


幸いにも家族の理解とサポートもあり、家族仲は良好だった。息子もスクスクと育った。


一方で、わたしは長く暗いトンネルをひとり歩き続けるような鬱屈とした日々を過ごした。仕事の悩みと、子どもから受ける無償の愛は交わることがなかった。子どもの笑顔を見れば「仕事の疲れも吹っ飛ぶ」という話をどこかで聞いたこともあったが、そこで湧き上がる愛おしさで仕事の苦しみを癒すことはなかった。


働くこととは、やりがいとは何だったのか。目まぐるしく働いてきた時代の記憶が霞みがかって、ついにはよく思い出せなくなった。


たまに友人と飲みにいくと「もう人生に満足した」と言ってヘラヘラと笑いながら自分を誤魔化し、帰りの電車では酷くうなだれて帰宅した。過眠気味になって、息子と共に夜は早く布団に入った。もう誰とも関わりたくないと本気で思いながら家に篭っては、やっぱり寂しいと人の誘いに即レスをして家を空けることもあった。もう何の責任もない仕事がしたいと喚いた次の日に、チームで物づくりがしたいと息巻く日もあった。


自分の頭の中の醜悪な矛盾に気づく度に、自分の生きづらさに打ちのめされた。


そんな悪態を晒しながらもなんとか生き延びていたわたしだったが、気づけば会社を辞めて5年もの月日が流れていた。自分の中の理想とギャップの落差には落ち込んでいたものの、皮肉にも売上は申し分なく伸び続け、反比例するように自由時間も確保されていた。まさに理想的な状態、と誰かが夢見た環境そのものだったかもしれない。

しかし、当の本人は全く満たされていなかった。


そして一体、その満たされなさが何から来ているのか、皆目見当がつかなかった。

迷い果てた先の、ちょうどよさの片鱗に触れて。

しかし、その答えは思いがけないところからやってきた。きっかけは今の会社に入らないかと、知人からいわゆる「リファラル採用」の誘いをもらったことであった。


もう随分と自由な生活をしていたし、今更サラリーマンに戻れる気が全くしなかったのだが、何を思ったか、とりあえず会うだけ会ってみるかと代表との面談を受けた。今思えば、あまりに失礼な話である。


しかし、いざ会ったその日に直感した。多分、この会社に入るだろうと。


こういってしまうと何とも運命論的で、ロマンチックに聞こえるかもしれない。しかし、実態はもっと情けないものだ。もちろん事業への興味があったことは大前提だが、わたしは自分の中で蓋をしていた「ちょうどよく、チームで働きたい」という、何とも半端で、同時に強烈な欲求がわたしの後頭部に鎮座していることに気づいてしまったのだ。


自分で言うのも何だが、それまでわたしは自身がとても気にしいな性格で、人に会うとへとへとに疲れてしまう「対人下手」であることを自称していた。実際、懇親会や打ち合わせはひどく苦手であった。


しかし、その瞬間にわたしは悟ったのだ。わたしは「程よく人と働きたい」のであって、孤立無縁な暮らしを望んでいるわけではなかったということを。0か100かの白黒ではなく、ちょうどいい距離感で、仕事というものを、暮らしというものを誰かと共有することにわたしは喜びを感じていたのだ。


そこからはとんとん拍子で、あっという間に入社が決まった。


5年ぶりであるオフィス勤めの初日はかなり緊張したが、数日も経つと不思議な心地よさを感じた。週5勤務も数ヶ月で慣れ、たまに出張もするが、週に1〜2回はフルリモートの日を確保して自分なりの「ちょうどよさ」を調整している。もちろん、ここぞという時には踏ん張って仕事をする。その後の開放感は、やはり非常に心地がいい。


それまでやっていた会社外での教育事業の運営も続けているが、完全独立時代に比べると明らかに心身の状態がよく、自然と前向きな施策を考えられるようになった。自宅でいつも脳内を駆け巡っていた「わたしの人生はこれでいいのか」といった謎の不安は、知らぬ間に頭に浮かばなくなっていた。

最高ではなく、ちょうどよさと働く。

人生における2周目の会社員は、見える景色が全く異なっていた。


人が居ること、真剣に事業について話し合うこと、誰かの相談に乗ること、他愛もない話をしながら酒を胃に流し込む瞬間が、どれほど愛おしい時間だったのかを、わたしは今、まさに追体験している。そして何より、直近の5年間にひとりで背負い込んだもの、苦しんだことはきちんと今の会社でも活かされている。それは本当に、心底うれしいことであった。


仕事は、「他の全てをかなぐり捨ててでも打ち込まなければいけない」と、脅迫的に取り組んでいた時期もあった。その反動で、働くことには意味がないんじゃないかと圧倒的な無気力感に苛まれた時期もあった。それは周囲の固定観念によるものなのかもしれないし、自分自身の価値を労働という行為でしか証明できない怯えであったのかもしれない。


しかし、今になって思う。生きるとは、働くとは、そんなシンプルなものではないということを。


1週間のうち、3日ぐらいは同僚と会いたいけど、1〜2日は1人で静かに作業がしたい。社内は仲がいい方がいいけれど、LINEで繋がりたいわけでもなければ、毎日定時後に遊びたいわけでもない。家族はいた方がいいけど、やっぱり1人の時間も欲しい。本当はどこかでその欲求に気づいていたはずなのに、なぜかそれは中途半端で、意気地なしで、良くない状態だとついわたしたちは自分を責め立ててしまう。


とんでもなく遠回りし、傷ついた旅路の先で、自分にとっての「ちょうどよさ」の片鱗を見つけられたのなら。これからも変わり続けるであろう自分の新たな「ちょうどよさ」にも、今度はちょっとだけ早く気づくことができるのではないかと。


そう思いながらわたしは今日も電車に揺られ、オフィスのドアに手をかけるのだった。

PROFILE

スワン

随筆するデザイナー

1991年群馬県生まれ。多摩美術大学卒業後、サイバーエージェント、メルカリなど大手IT企業でデザイナーとしてサービス開発に携わる。現在はDesignship Doの代表を務める傍ら、株式会社操電でデザイナーとして勤務。著書に『あなたの24時間はどこへ消えるのか』(SBクリエイティブ)がある。

note:https://note.com/shiratoriyurie

YouTubehttps://www.youtube.com/@swaaan

CREDIT

執筆、撮影:スワン 編集:桒田萌(ノオト)

ブランド名

商品名が入ります商品名が入ります

★★★★☆

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PROFILE

山田 太郎

CO-FOUNDER & CTO

親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。

山田 太郎

CO-FOUNDER & CTO

親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。

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